百済は西暦660年、唐と新羅の連合軍により敗れた百済国の王族や武官のおびただしい人々が妻女等を引き連れ日本に亡命した。
我が村に伝わる伝説によれば、一行は今の広島県厳島に上陸、大和方面に定住したとも聞くその後、船二隻で安住の地を求め九州を目指したものの、はげしいしけに襲われ、日向の国の金ヶ浜と 蛇口浦に別れ別れに漂着した。
金ヶ浜につかれた方は、禎嘉王、華智王、乳母、お側女官、舎人など十数人。蛇口浦についた方は福智王とその妃ら一行でした。
金ヶ浜に着かれた父禎嘉王は宮居の地をうらなったところ、ここより七十八里(百済の里)山中の神門が良いと出たのでそこに居をさだめることとなった。ここが定住の地、南郷村 神門である。
蛇口浦に着かれた福智王は球をなげて宮居の場をうらなった球は十八里(三里)の木城の比木の地までとび、そこにとまったので、比木に宮居をさだめ、別れ定住された。
その後、木城町比木の福智王が南郷村神門の禎嘉王に会いに来るというのが師走祭りのおおまかな原形である。
養老2年(718年)の創建といわれ、百済王族 禎嘉王(テイカオウ)を祀る。
伝説の証となる三十三面の伝世品の正倉院の御物と同一の銅鏡がある。
本殿には平城京の発掘から確認された技法が残るなど古代史の謎の舞台にふさわしい神社です。
外国神は神社庁の神名帳に登録されていない。漂着の王で悲劇的な末路をたどった王族は村人からひそかに「神門大明神」として祀られたことがうかがえる。
西の正倉院は、奈良の正倉院と同一品を含む貴重な文化財が存在することから計画された博物館です。正倉院図を元に、屋根瓦や柱などのすべての部材や瓦の葺き方までを、奈良正倉院と寸分の違いもなく、ここに再建しています。
建築にあたっては、宮内庁の協力のもと、奈良国立文化財研究所の学術支援、建設大臣の特別許可を受け、造営材には、すべて木曾の桧を使用しています。
建物の中では、数多くの宝物の展示と、百済王族の歴史伝説が詳しく紹介されています。
※百済の館とセット料金となっております。
日韓交流のシンボルでもある「百済の館」は、百済の最後の都となった韓国の古都「扶餘」の王宮跡に建つ、(元)国立博物館の「客舎」をモデルに、原寸大で復元されました。
館内には、百済時代の国宝や、重要文化財のレプリカなどが多数展示されており、日本全国の百済文化の足跡も詳しく紹介されており百済文化を紹介する資料館となっています。
館内のミュージアムショップでは韓国の名品や、百済文化に関するグッズなど珍しい品々もショッピングできます。
村を見下ろす小高い丘にある六角形の東屋は「扶餘」の落花厳に建つ、美しいロマンの舞台となった「百花亭」を再現しています。
ここには韓国との友好の証として届けられた「絆の鐘」と呼ばれる一対の鐘があり、“百済古都扶餘から百済の里 南郷村に贈る音”という意味のハングル文字が記されています。
恋人はもちろん、親子や兄弟姉妹などが鐘を鳴らすと、より絆が強くなり、ここで誓った愛は永遠に壊れることがないとされています。
自然と温もりが共存する佇まい。
木の持つ温かみと、落ち着いた風情のあるたたずまい。百済の里の景観にふさわしい雰囲気をそなえています。広々とした施設内には、湯上りにゆったりと落ち着ける大広間や個室のスペースが設けられており、訪れる人々にくつろぎの空間と時間をお届けします。
身体をいたわる浪漫の湯。
良質な泉質は自然の恩恵なしでは生まれません。湧出した温泉は、ナトリウム炭酸水素塩温泉。慢性皮膚病・神経痛・筋肉痛・冷え性・疲労回復・切り傷・火傷・美肌などに効能があります。飲用すれば、慢性消化器病から痛風・糖尿病・肝臓病等さまざまな適応症に対応した命の湯です。
美郷町南郷と椎葉村の境に、美石群と呼ばれる溶岩渓谷があります。これは、太古の火山活動でできた石群で、緑や赤などの様々の色を見せてくれます。また、美石群のすぐそばに「鬼神野キャンプ場」があり、ヤマメ釣り等で夏には多くの人でにぎわっています。(南郷旅館から車で約30分)